出産は世界の多くの地域で主な死亡原因であることから、妊婦たちは長い間、お産に伴う恐怖や不快感を和らげようとしてきた。歴史上、出産の痛みの緩和には、催眠術やアヘン、水中分娩、ハーブ療法のほか、ありとあらゆる手段が用いられてきた。
現在、出産の痛みを和らげる方法としては、背中や腰から麻酔薬を注入する「硬膜外麻酔法」による無痛分娩が最も一般的だ。しかし新たな研究により、この方法には痛みの緩和以上の効果があるとわかった。硬膜外麻酔を受けた場合、出産から6週間後までの間に重い合併症にかかるリスクが35%も下がることが示されたのだ。英グラスゴー大学と英ブリストル大学の研究者による論文は、2024年5月22日付けで医学誌「BMJ(ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル)」に発表された。
鎮痛剤や専門的なマッサージ療法、鍼(はり)治療、亜酸化窒素(笑気ガス)など、「痛みを和らげる方法はほかにも色々ありますが、効果で硬膜外麻酔に勝るものはありません」と、米ブリガム・アンド・ウィメンズ病院の産科麻酔科名誉科長のウィリアム・ケイマン氏は述べている。(参考記事:「妊娠と出産 進む技術革新」)
今回の発見は、「女性に硬膜外麻酔についての正確な情報を伝え、すべての女性がこの処置を平等に受けられるようにすることの重要性を示しています」と、論文の筆頭著者で、グラスゴー大学医学部名誉教授のレイチェル・カーンズ氏は言う。
この研究ではまた、硬膜外麻酔による無痛分娩で、心臓や呼吸器の病気や妊娠高血圧腎症、帝王切開の経験、逆子や多胎、病的な肥満のある妊婦ではリスクが50%、早産の場合では47%下がることが示された。
これは、硬膜外麻酔を選択する高リスクの妊婦にとって、「統計的に非常に有意な効果と言えます」と、米国麻酔科学会産科麻酔委員会の委員長であるマーク・ザコウスキー氏は言う。なお、氏は今回の研究には関与していない。
さらに、「出産中の妊婦の安全を守るという、母体の健康において非常に重大な問題」に取り組む上で役立つ研究でもあると、米UCLAヘルス病院で心臓産科プログラム共同ディレクターを務めるヤルダ・アフシャール氏は評価する。なお、氏も今回の研究には関与していない。(参考記事:「命に関わる激しいつわり「妊娠悪阻」、ついに原因解明、治療に光」)
ただし、今回の研究では、新生児ではなく、母親がかかる出産合併症だけを扱っている点に注意が必要だ。調査対象となった出産に伴う「重い合併症」には、血栓、入院を必要とする敗血症などの感染症、過度の出血、子宮摘出、心不全などがある。
研究者らは、2007〜2019年に英スコットランドで出産した56万7216人の女性を対象に、上記のような重い合併症について、出産から6週間以内の発生状況を調査した。
今回の調査対象は、93%がひとつの国に住む白人女性であることから、「より民族的に多様な人々に当てはめるには限界があります」と、論文著者のカーンズ氏は注意を促している。
なぜ麻酔が出産のリスクを減らすのか
硬膜外麻酔が合併症を減らす理由のひとつはおそらく、母親のストレス反応が緩和され、「ストレスホルモンの濃度や血圧、心拍数が低下する」ためだと、カーンズ氏は説明する。また、心血管系や呼吸器系の生理的な負担が改善されることで、「基礎疾患や、まだ診断されていない疾患のある人への重要な保護」につながると、ザコウスキー氏は言う。
また、「お産では予測できない事態が起こるため、もし緊急の帝王切開が必要になった場合でも、(局所麻酔である)硬膜外麻酔を施していれば、全身麻酔によって起こり得る合併症や、母体や赤ん坊への悪影響を防げます」と、米ニューヨーク大学ランゴン病院の産婦人科主任ミリーン・チュアン氏は言う。
さらに、特に長時間に及ぶ出産では、麻酔は母親に休息をとって活力を取り戻す機会を与え、結果として帝王切開をせずに済むこともある。硬膜外麻酔のおかげで、「数時間から場合によっては数日間も続く苦しみに、より耐えられるようになるのです」と、米MUSCヘルス大学医療センターの産科麻酔科医デビッド・ガットマン氏は言う。
硬膜外麻酔はこのようにして、出産に臨む母親が経験するトラウマの軽減にも役立つ。出産による痛みは産後うつの発生率とも関連が示されている。(参考記事:「産後うつの飲み薬が米国で承認、昔は懲罰療法も、長く悲惨な過去」)
充実したケアがプラスに?
今回の研究は、世界中でより多くの人々が適切な医療を受けられるようにすることの重要性も示している。
「硬膜外麻酔でストレスが軽くなったおかげで良い結果がもたらされた可能性はありますが、おそらくは麻酔科医が医療チームの一員にいたことが、重要な意味を持っていたのではないでしょうか」と、米ハーバード大学医学部の医師で麻酔学研究者のフィリップ・ヘス氏は言う。なお、氏は今回の研究には関与していない。
出産を見守る目が増えることや、麻酔医が持つ救急救命の技術は特に役立つだろうと、氏は指摘する。さらには、硬膜外麻酔を提供できる病院には通常、多くの合併症を予防・発見できる診断機器やモニタリング機器が備わっている。
カーンズ氏もまた、そうした外的要因が、今回の研究結果で大きくプラスに働いた可能性がある点に同意している。さらに、硬膜外麻酔を受ける女性は、出産中に追加の水分や薬を点滴される可能性がより高いとも述べている。
「われわれのデータにおいて、硬膜外麻酔の直接的な効果を、それに伴う一連のケアによる効果から完全に切り離すことはできません。なぜなら、硬膜外麻酔による出産では、好ましくない出来事に対処する能力を高めるべく、その女性に提供されるケアが変わるからです」とカーンズ氏は言う。
ほかの国や地域に当てはめられるのか
米インターマウンテン・ヘルスで周産期を担当する医師アレクサンドラ・グロブナー・エラー氏は、今回の研究では産後の期間が6週間と設定されており、より一般的な2〜4週間ではないという点が、結果をややこしくしている可能性があると指摘する。
「ほかの研究では通常、出産のための入院中に起こる合併症に焦点を当てます」と氏は説明する。「産後にどの程度の割合が重い病気になるかは複雑な問題であり、時間がたってから出てくる症例は、出産や硬膜外麻酔の有無と関連している可能性もありますが、そうでないものも多いでしょう」
ガットマン氏は、「これほどの規模では、間接的に影響する因子が無数に存在します」と述べている。医療の慣行は、病院や地域ごとに異なる可能性がある。「ですから、スコットランドの人々から得られたデータを、たとえば米サウスカロライナ州のチャールストンに当てはめるのは困難です」
事実、2022年に医学誌「JAMA Network Open」に掲載された研究では、硬膜外麻酔によって重い合併症の発生率が14%下がった。今回の研究よりかなり控えめな数字だ。こちらの研究も50万人以上の女性のデータを調べているが、対象となった場所はスコットランドではなく米ニューヨーク州の病院だった。
とはいえ、もし今回の研究結果がほかの国でも再現されるのであれば、それは大きな希望となる。
「妊娠にはリスクがつきものであり、マイノリティ集団であればなおさらです」と語るのは、米MUSC小児病院の医師エリザベス・マック氏だ。2022年の米国における妊産婦死亡率(妊娠中および妊娠終了後42日未満に妊娠・出産に関わる原因で死亡した割合)は出産10万件あたり22.3人、2020〜2022年の英国では同13.4人だったと氏は指摘する(編注:厚生労働省の人口動態統計によれば、2022年の日本では同4.2人)。
「ですから、硬膜外麻酔のような出産に関わるリスクを減らす要素を公平に使えるようにしていくことが重要です」(参考記事:「女性の健康問題をAIで解決へ、乳がんや妊娠合併症などで活用進む」)
「100%個人の選択」
硬膜外麻酔は、今のところ最も安全かつ実績のある医療介入のひとつだが、妊婦の中には、針への恐怖心や、出産の経験を余すところなく味わいたいという思い、高額な費用、宗教的・文化的な信条などの理由から、利用しない人たちもいるとザコウスキー氏は指摘する。
「感覚が鈍くなるのは非常に独特の体験であり、それを好まない女性もいます」とチュアン氏は付け加える。「硬膜外麻酔のあとで硬膜穿刺後頭痛(こうまくせんしごずつう)と呼ばれる症状が起こり、治療に苦労する場合もあります」とマック氏は言う。また、まれに神経が傷つくおそれもあるという。
痛みを和らげるために硬膜外麻酔を受けるかどうかは「100%個人の選択」であり、健康状態を考えて決める必要があるのでなければ、医療提供者が選択に影響を与えようとすべきではないと、ヘス氏は言う。
「低リスク妊娠の女性たちには、自分の好みに合った選択をしていいのだと感じてほしいと思います」とエラー氏も言う。「重い合併症を減らすために、すべての女性に硬膜外麻酔を受けるよう強く勧めるのは時期尚早でしょう」
アフシャール氏もまた、新たな研究は「決して硬膜外麻酔を使わないのは安全ではないと言っているわけではありません」と強調する。氏が望むのは、今回の研究結果が、硬膜外麻酔を選ぶ人たちに対して、この処置は効果的かつ安全であり、場合によっては「深刻な合併症のリスクを減らせる可能性もある」という安心感を与えてくれることだ。
引用元:
無痛分娩で母親の重い合併症も顕著に減ると判明、命を救うかも(ナショナル ジオグラフィック日本版)